八月三日 晴 六月十五日 月
日付: 1868-08-03
Diary Entry
八月三日晴六月十五日月
朝八時御旅宿御発、御歩行ニ而海岸なる砲台及軍艦製造其外海軍製造所御越《大砲弾玉共》、アルスナール入口ニ而壱人の士官を雇、案内為致
第一スーフレン製艦所、二造船器械製造所《レプヲルジユ》、三フヲンドリー《同器械製造所》、四海岸台場一覧、五乾潮満潮其外海波の動静を知る器械一覧、軍艦貯所御一覧、軍艦凡拾弐艘但蒸気壱艘毎ニ砲百門を載ス内三艘は鉄船、次にサルダルム御巡問製造に掛りたる軍艦御一覧、長百弐十メートル、高サ弐十五メイトル巾弐十五メイトル、尤広大なり、軍艦に用ゆる木細工所、大砲弾製作所御越、次に小銃製作所御越
Rochambeauといふ惣鉄船御一覧、蒸気千三百馬力、大砲弐十五門但三百ポント一時十三より十五ヌー
諸方御一覧済、第十二時御帰館
第一時三十五分御発、プラスダルム馬車ニ而御行過、初代那破翁の銅像あり、其貌英国を指シ、此湊を維持する様ナリ、夫より海岸の海入場を添ふて昨日到着せし汽車場を通り、此地は岩山多し、道巨嵓に添ふて甚嶮ナリ、路傍にいと大なる岩山あり、其嶺に一の石にて築立たる台場あり、シヤーブール四万五千人、尤fortduRoule山は総而岩石ニ而道路屈曲せり、凡十丁斗にして巓にいたる、巓に大なる〓台あり、千八百五十三年の製造といふ、兵卒の陣屋弾薬の貯所備れり、此台場は港を攻る兵の山裏より来るを禦く為なりといふ、砲台は土台場ニ而砲門はいまた備へす、第二時半山を下り、第三時湊口ニ而小船に乗組、第三時三十五分海中築立之台場着、上陸、築立台場長凡壱里余、巾七八間、総而山石ニ而築立たり、其貌長く築立たる堤の如し、尤石少し屈曲あり、石砲台四ケ所、小大同しからす、尤製造は総而石ニ而製作したり、此台場海岸より凡壱里半計なる海中江人力もて埋立、如此築城したりといふ、凡百年余に至り、いまた全備せすといふ、四ケ所の砲台之内、壱ケ所Centralといふ砲台江登り、御一覧、此砲台砲門三重になせり、最上と二段目とは砲拾四門を備置けり、但八十ポント程其下は稍少し、実ニ宏壮を尽せり、海中の深淵を埋立たりといふしか《(ひ)》、一見ニ而は真《(信)》し難き程なりし、其長堤石台場より右に二ツの広大なる台場あり、其一をアンペリヤールといふ、其一をデフラマンといふ、其距離凡一里足らすなり、アンヘリヤールは尤広大ニ而、砲四百五十門を備置りといふ、石砲台の左に当り、又一の砲台あり、都合七ツ海面に向へ築立たり、内海の海軍局に添ふて弐三箇の壮大なる砲礟あり、総而旧年の製作なれは、山石ニ而築立、弾玉の破撃せし節は摧破すへしといへとも、其歳月を積て如此く成功せしは尤人功天造に勝るとも言ふへき程なり
第《(衍カ)》
J'avais resolu de renouveler a Cherbourg les merveilles de l'Egypte.
第五時半御帰宿、七時御夜餐、御夜餐後海辺御遊歩、此夜御案内之カピテイン江被下物送り遣す